娘にとっては幸せいっぱいだった保育所

 上の娘が保育所に入ったのは、ちょうど「阪神淡路大震災」のすぐ後の頃でした。初めに候補にしていた保育所は周りが見事な焼け野原になってしまっていて、「環境的にどうかなぁ」と二人で話をしたことを覚えています。
 娘はひどい食物アレルギーを持っていました。血液検査では、結果用紙からはみ出すほどのひどいアレルギーでした。そのため、食べるものもみんなと同じものは食べられず、特別に買ってきた除去食だけでした。なので、保育所でも毎日妻の作るお弁当を持っていく事になっていたのです。そんなさまざまなフォローをしていただける保育所を探していました。私立の保育所にもいくつか電話で相談してみました。しかしその度に「そういうフォローはできない」と冷たく言われ、電話を切った後で妻が泣いているのを、何度も見てきました。
 しかし、何がどうなるかはよく分からない物で、人数的にはほぼ無理だった公立の保育所に入れてもらえることになりました。なにやら震災後のドタバタに紛れてすっと入り込めたような気分でした。
 しかしそこの保育所は、小さいながらも保育士さん達がとても優しくしっかりとしておられました。娘のアレルギーの話をじっくり聞いてくださり、年少のクラスの2人の先生のうちお一人は、「看護師免許」を持った先生を付けてくださりました。
 さすがにクッキーの小さな粒一つが口のそばにつくだけで「アナフィラキシーショック」を起こすような娘でしたので、食事時は完全にみんなから離れて、先生と二人で妻の作った除去食のお弁当をいつも食べていました。
 しかしそれ以外の面では気を付けてもらいながらも、みんなと同じように走り回り、楽しい保育園生活を送らせていただきました。保育所で覚えてきたお遊戯は、必ず家で寝る前に布団の上で一通り歌って踊り、ぬいぐるみを相手に保育士の先生の口癖をまねて、「保育所ごっこ」必ずしていました。それだれ、一日がこの子にとっては楽しいものだったのでしょう。
 一度だけ、何が原因かわからないけれども昼食後に「アナフィキラシーショック」を起こし、職員室の奥のベッドで、顔を真っ赤にしてハァハァ言っていたこともありました。職場に電話がかかってきたのですぐに保育所へ向かい、そのままタクシーで主治医の先生のいる病院まで走りました。
 そんな時も先生が一人ついてきてくださり、ずっと娘の手をつないでくれていました。
 最近になって保育児童が増えたせいで、保育所も立て直されて新しくきれいになりました。でも、娘とその下の妹が通っていた頃の、吹き抜けのあるちょっと狭い目の校舎が私はデザイン的にも好きでした。
 今でも時々お会いすることがありますが、あのころの記憶はいつでもすぐに戻ってきます。それだけ「幸せな時間」というものを過ごさせていただけたのだと思っています。